Menu

大信寺と徳川忠長

Home

大信寺と徳川忠長

二代目将軍秀忠の次男で三代将軍徳川家光の実弟にあたる徳川忠長は、言行粗暴・大逆不遜の罪人として嫌疑をかけられ、寛永9(1632)年に高崎城に幽閉されました。

高崎城主 安藤重長は、しばしば赦免を哀訴しましたが認められず、寛永10(1633)年に切腹を命じられました。忠長は切腹より自ら命を絶つことを選んだのでした。
忠長28歳の若さでした。

その後、当大信寺十一世 心誉上人によりこの地に埋葬されました。
法名は「峰巌院殿前亜相晴徹暁雲大居士」といいます。

死後43年の延宝3(1675)年の四代将軍家綱の時に免罪され、ようやく墓石を建立することができました。このため大信寺は以前受けた7石に更に100石の石高を加増されました。

忠長の墓石は大信寺の境内にある巨大な高さ2.3メートル余の五輪塔で、周囲には石の玉垣がめぐらされ、さらに鎖でつながれていたため、「鎖のお霊屋(たまや)」と呼ばれていました。
正面の石の扉には三葉葵の裏紋が刻まれています。
墓はもともと立派な廟の中にありましたが、廟は戦災で焼失してしまいました。

大信寺には忠長没後に姉の千姫より供養として寄進された、葵紋付きの硯箱、自刃に用いた短刀、婚礼時に使用した金色の長柄の銚子、自筆の手紙、茶器、仏舎利塔、豊臣秀頼の陣羽織をなおした袈裟などが位牌とともに安置されています。

拝観について

拝観ご希望の際は大信寺まで事前にご連絡ください。TEL:027-322-6069

JR高崎駅西口下車、徒歩7分
駐車場は2、3台分になりますので、電車のご利用をお勧め致します。

高崎市のイベント情報
ページの先頭へ